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私が店長です、よろしく。


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いらっしゃいませ。
【日本一情熱のあるランドセル屋さん】
ミナベ の ホームページ へ
ご訪問いただき、ありがとうございます。m(__)m

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▲若かりし日のわたし(ちょっと若すぎやんか!)

むかーし、お店の前で撮った写真です


ようこそ。いらっしゃいませ。
私が【日本一情熱のあるランドセル屋さん】
ミナベの店長 小池弘起です。
(店長と言っても、私が一人でやってるんですけどね。)

このページでは、
【日本一情熱のあるランドセル屋さん】を
運営管理している、わたくし小池弘起の自己紹介をさせて頂いています。

日本一情熱のあるランドセル屋さん』って屋号。
なんとなく「怪しい」ですよね。
私も、そう思います。(笑)

でも、このページを読んで頂ければ、50年以上に渡って
地元密着でビジネスしてきたことや、私の歴史がわかります。

少しは「怪しさが和らぐのでは」と思い書いています。
時間のある方は、ぜひ読んでみてください。


ちなみにですが、この

「日本一情熱のあるランドセル屋さん」っていう屋号。

以前ランドセルを買って頂いたお母さんからの手紙にあったフレーズなんです。
『・・・、まさに日本一情熱のあるランドセル屋さんですね!。
みたいな感じです。

それでは、長いですがよろしくおねがいします。



※下のイラストはニュース和歌山などに4コマ漫画を連載していらっしゃる
「いわみせいじ」さんに似顔絵を描いていただきました。
突然のお願いでしたが快く引き受けていただきました。
(『いわみせいじ』で検索すると、著作やサイトがヒットします。)

ご存知の方もいるかも知れませんが、画伯は和歌山の海南出身で
わたくし店長の2歳先輩で、学生時代から地元の一部では結構な有名人でした。
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誰が知りたいねん! 私のプロフィール

■私のプロフィール・・・って、「誰が知りたいの?」と
思うでしょうが勝手に語らせていただきます。(汗)


学歴は

和歌山県海南市立黒江幼稚園
和歌山県海南市立黒江小学校
和歌山県海南市立海南第一中学校
和歌山県立海南高等学校
近畿大学理工学部電子工学科

てな具合に、すべて無事卒業させて頂きました。
実は完全なる「理系人間」です。

理工学部だったので、理学系と工学系の両方を学びました。
でも、なぜか「商い」しています。
実家が商人だったからです。
世間一般で言う、二代目と言うか跡継ぎというか後継者というか。


そして職歴は

螢痢璽螢銚Φ罐札鵐拭次淵痢璽螢長鬱,寮澤徂門)
http://www.noritsu.co.jp/

袁族了灰灰ヨ
(和歌山コクヨは、株式会社大山との合併などの経緯を経て、
 今は新東光通商株式会社和歌山営業所/2016.1.1現在)
 ※株式会社大山は、小売店としての現存していますが、
 私のお店が直接関係する卸業はやめてしまいました。
 なので、小売店の私にとっても仕入先の和歌山コクヨさんは、
 2009年7月末存在しなくなりました。

であります。


■幼稚園、小学校は本当にすぐ近くにありました。
家から学校の門をくぐるまでの距離より、
門をくぐってから教室までの距離の方が遠いくらいです。

50歳を過ぎると、当時のことはかなり昔のことです。
忘れてしまったことが多いですが、
当時の思い出で今でも印象に残っているのは、
小学6年生の時に分団対抗リレー(地区対抗リレーの様なもの)で
優勝したことです。

同じ小学校に通った息子が二人いるので、
彼らが小学生の時は、ちょっと自慢したものでした。
思い出としては、小学校時代の唯一の自慢の種でしょうか。


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優勝のテープを切った瞬間

■中学校は少しは遠くなったというものの、
歩いて10分程度のところに学校がありました。

当時は、お弁当でなくお昼に家に帰って食事してもOKと言う、
お弁当を作るのに忙しいお母さんにとっては、
とても素晴らしいシステムの学校でした。
たぶん、今の時代こんな学校は無いでしょうね。

お弁当を持って行った時もありましたが、
時には昼休憩に家でテレビを見ながら自宅で食事したものでした。
今から思えば本当に極楽ですね。

中学校時代は、あまり印象に残っていることが無く、
私の人生の中でも一番、地味〜な3年かもしれません。


■高校は和歌山県立海南高等学校に自転車で通いました。
遠くなったといえども、15分程度で着くので楽チンでした。
一番近くの公立高校に行けたので、そういう意味では幸せでした。

現在では通える学校のは選択肢が増えましたが、
当時は多くの生徒が近くの高校に通いました。

時々は専門性を求めて工業高校、商業高校、高専などに
行く友人たちもいましたが。


■そして、高校時代、クラブ活動はサッカー部に所属しました。
あまり技術的に優秀な選手ではなかったのですが、
いい先生といい友人にめぐり合えて、
振り返ってみると本当に素晴らしい高校生活でした。

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▲高校時代、近畿大会の時の写真

それに、仲間達と一緒に全国大会である「インターハイ」に
出場できた事も非常にいい思い出です。

もちろん大変な出来事も数限りなくありましたが、
今でも当時の友人や先生とお付き合いさせていただいています。
高校3年間で、その後の人生にとって大切な財産を得ることが出来ました。
これは本当に幸せなことです。
心から、この出会いに感謝しています。

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▲インターハイ出場した時の記念写真


■大学も4年間、自宅から電車で通いました。
つまり下宿などをした経験がないということです。

これは、本当に体力的に時間的に厳しい4年間でした。
一時間目の授業に出席する為には、
朝6時前発のラッシュの電車に揺られ2時間強。

そして帰ってくるのは同じく2時間電車に揺られ夜遅く。
と言うような生活が続くこともありました。

理工学部だった為に実験の授業などは当然のようにありますし
特に卒業研究の時期は、研究室で寝泊りしたこともありました。

入学から卒業までに間、出席しなかった授業は1回だけと言うのが
ささやかな自慢です。

授業に出れなかった理由は、徹夜してもどう考えても
時間的にレポート提出が間に合いそうに無かったからです。
レポートを書くために学校にいましたが授業に出られませんでした。

その甲斐あってか無事4年で卒業できました。
人生の中でも、かなり勉強に頑張った時期です。


はい。
実は時間をきっちり守ってコツコツ努力するタイプなんです。
特に大学生活は、無理して学校に通わせてくれた
両親への感謝の意味も込めて「必ず学校にいく」と決めていたからです。

学校に行くという意味では、
100%目標は達成することができました。

■理系なのでコンピューターの話です。
当時は世の中にはWindowsは無く、
その前身のMS-DOSの時代でした。

Appleが「コンピューターを家庭に」と言う概念を世の中に出した、
そんな、コンピューター業界の時代が変化する時期でした。

そして、「パソコン」と言う言葉がやっと世間で知られ始めた時代でした。
まだまだコンピューターは、個人で買うには高価で
小さいコンピューターいわゆる「マイクロコンピューター」=「マイコン」
と言う表現も盛んにされており、
人によっては「私のコンピューター」という意味で「MyCom」と
勘違いしている方も多い時代でした。

今思えば、時代が変化する時期に大学生活を過ごせたことは
運が良く幸せだったと思います。


■そして、無事自分にやりたい事が出来る会社に就職しました。
理系で写真を撮ることが好きだった私は、
理想の会社に技術者として就職する事ができました。

当時は、家庭用のデジタルカメラはありませんでした。
時代も変わったので現在では違う商品も開発しています。

就職したのは、
(株)ノーリツ研究センター(ノーリツ鋼機の設計部門)です。
http://www.noritsu.co.jp/

非常に厳しい会社でした。
仕事に関しても、規律に関しても。

ここでも人生に影響する多くの事を学びました。
多いときには、200時間近い残業。(労働基準法違反?)
月間400時間の労働は長すぎでしょうか。(働き過ぎですね。)

今から考えると社会人になって、初めてお給料を頂く為に働いたのが
このような厳しい会社であった事には非常に感謝していますし、
運が良かったと思います。
(当時理系の学生は超売り手市場でしたから。)

なぜ、厳しい会社なのに良かったのかといいますと、
仕事に対する姿勢や、取り組みかた、考え方、そして頑張り方。
働くという事が、この会社で学んだ事が基準となったので、
その後の人生で出会う仕事には何の苦も無く取り組める。
その感覚を体得したからです。

給料以上に働く事、お客さんの為なら長時間でも働く事、
そして自分の成長の為に働く事。
全てこの会社から学びました。

ここで得た「基準」は、その後のビジネス人生に
大きな役割を果たしています。

なので、現在は「時間を守らない人」「約束を守らない人」と
お付き合いするのが、特別に苦手です。

遅刻することが平気な人っていますよね。
私はそういう人がかなり苦手です。
時間をロスすることは、命を削られている感覚になるからです。


■その後、家庭の事情もあり、株式会社和歌山コクヨに入社。
現在の仕事の基礎を学ぶ事になります。

ここでの仕事は営業から、納品、配達など多岐にわたり
学ばせていただきました。

ここで得たものも非常に大きかったです。
初め入社した、(株)ノーリツ研究センターとは
全く雰囲気の違う会社でした。

もちろん、そこから学ぶことも多く、
多くの先輩や、たくさんのお客さんと出会い、
その人達の価値観に触れ自分を磨いていくことが出来ました。


■そして、現在は創業者の先代である父の後を継ぎ、
自営業と言う形でビジネスを営んでいます。
自営業者になる前に、2つの会社でお給料をいただきながら、
設計、研究開発、組立、検査、営業、販売、配送、納品・・・など 
いろんな職種を経験できました。

1つの仕事に対して、特定の職種から見るのではなく
経験した複数の職種の立場から見るという「視点」を得たことは、
私の社会人としての何よりの財産です。

なぜなら、想像ではなく実際に体感した「相手の立場」を
理解した上で人と接することが出来るからです。



■サッカーは、小学校の4年生の時から現在まで、
ずっと関わってきました。
改めて考えると、40年以上になりますね。
自分でもビックリです。

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▲私の小学校での試合風景(写真の色がレトロやわ)
ちなみに私は、手前右側の選手です。

サッカーに関しては子どもの頃は、もちろん選手として。
大人になってからは指導者として関わっています。

私が所属しているのは、いわゆる地域のクラブチームで
よくある学校クラブ活動や少年団的なチームではありません。

そのクラブは、社会人から、小学生まで、また女子チームもある
登録選手が200名を超える和歌山では最も大きなクラブです。

ちなみに、ソラティオーラ和歌山って言います。http://www.solatiora.com/

※正式には
特定非営利活動法人 スポーツ・リパブリック・ソラティオーラ和歌山
です。
いわゆる、NPO法人です。


昨今、「なでしこジャパン」と呼ばれている女子サッカーに
約30年間、クラブ内の女子チームの指導に関わりました。

クラブに社会人チームが1チームしかない時代から運営に携わってきたので、
クラブの規模がここまで成長すると、感慨深いものがあります。


■また、すこし変わったスポーツもやっていました。
当時はかなりマイナーな「トライアスロン」と言う
水泳・自転車・マラソンを続けて行うアメリカ生まれの過酷な競技です。
オリンピック競技とは言え、まだまだ知名度は低いです。
今では多少は知られていますが、当時は超マイナースポーツです。

サッカーはチームスポーツですので、個人競技に少しの憧れがあった私は、
この競技を知った瞬間にチャレンジしてみる事を決断しました。
決断は、かなり早い方です。即決即断タイプです。
レストランでメニューを選ぶのも、
コンビニで弁当を買うのも、いつでも即決です。

トライアスロン出会いそして取り組み始めたのは、大学生の終わり頃。
本格的には社会人になってから練習に励み、
独身と言うお気楽な身分だったので、
いろいろな地域のレースに出かけました。

トライアスリート憧れの地、沖縄の宮古島大会。
日本トライアスロン発祥の地、
鳥取県の皆生大会。
広島の国際大会。
京都の天橋立大会。
茨城の全日本選手権波崎大会(ちなみに和歌山県代表)。
・・・

楽しく、苦しい思い出ばかりです。

そういえば、
ノーリツ研究センターに勤めていた頃は、
設計の仕事をしていたので、
キャッチフレーズは「走って、泳げる、プログラマー」でした。

これって、「つかみ」としては結構うけましたね。

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▲先頭が私です。
もちろん全体の先頭ではなく、この集団の先頭ですけど。
平成3年の沖縄の宮古島大会の写真です。
最終的には約780人中333位でした。



■結婚して子どもができ、仕事も忙しくなると
もっとも少なくなるのが「自分の事」をする時間。

人生を共に歩む人のために時間を使う。
これはある意味幸せなことでもあります。
なので、不満があるわけではありません。


いまでも、自転車に乗ったり泳いだししたい気持ちはありますが、
それにはある程度の「まとまった時間」が必要。
トライアスロンは、半端な取り組みでは成果が出ないからです。

よほど気合を入れて「時間を作る努力」をしないと、難しいものです。
なにせ3種目ありますから。

少しの時間なら、本を読んだり、マーケティングの勉強したりで、
どうしても、ビジネスに関することに時間を使いがち。
また、近い将来トライアスロンに復帰したいものです。

■サッカーの影響で、膝を痛めたことがきっかけで
長い期間トレーニングを中断していました。

ただ、身近な人がチャレンジしているのに刺激され、
最近は、走ることを中心にトレーニングを再開しました。

まず初めに、地元で行なわれたマラソン大会に出場しました。
和歌浦ベイマラソンwithジャズ

「ベイ」というのは「ベイサイド」と意味で
主に「和歌浦」と言う景勝地の海沿いを走ります。
「withジャズ」と言うのは、コースの途中でアマチュアバンドや、時にはプロのミュージシャン。
そして、高校の軽音楽部(スイングガールズ&ボーイズ)が
音楽を生演奏してくれるという、本当に素晴らしい大会です。

もし機会があれば、自身を持って参加する事をおすすめできます。

13回ジャズマラソン
▲ジャズマラソン「完走したぞ!」ポーズ(2013.10.27)


その後、中学生の時の仲間と地元の駅伝に参加しました。
57回海南市駅伝
▲第57回 海南市駅伝競走大会(2014.1.13)
実は結構歴史があったりします。


で、10年以上ぶりにフルマラソンに出ちゃいました。
かなりキツかったですが、なんとかなるものですね。
口熊野マラソン
▲第19回紀州口熊野マラソン(2014.2.2)


で、今度は一転、知り合いの山ガールに誘われ
山登りの挑戦しました。
これは、山を登ったり降りたり1日で約50km歩くという大会。
私にとっては未知の領域なのですが、とんでもなくキツかった。
走るわけでなく全部歩きましたが、フルマラソンより大変でした。
六甲縦走2014
▲ゴール後の記念撮影(2014.3.9)


で、この山登りに味をしめて「トレラン」に挑戦しました。
和歌山には世界遺産にも登録された「熊野古道」と言う参詣道があります。
その一部を走るという、これ又過酷な大会。
これも、相当にキツかったですね。
熊野中辺路マウンテンランレース

▲顔に疲れが出てますね。(2014.4.6)


結構、おっさんになってからトレーニングを再開したので
実は「ケガ」と闘いながらの日々です。
直ぐに、肉離れを起こしてしまうのです。

年を取ると疲れが回復するのが遅くなります。
そして、怪我か回復するのも自分でもびっくりするほど遅くなりました。
昔は、肉離れなんか知らないうちに治っていたのに、

ああ、恐ろしや。


こんな、日本で初めて開催される大会にも出ました。
新しい世界に出会いました。
ちょっと面白く感じ始めています。

▼白山ジオトレイル

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トレーニングのお話はこの辺りで。


■お仕事のお話の戻ります。
私のビジネスは父の後をついだ形で進めています。

父の創業したお店はすでに50年を越えています。
ランドセルの仕入先であるコクヨさんとのお付き合いも
その創業以前からになります。

※実は父の実家が、当時のコクヨの和歌山支店の真ん前だったことから、
その支店の経営者の方とは子供の頃から知り合いでした。
で、後に父はその会社に就職し、独立して今の仕事を創業したということなんです。


ただ、その父親が認知症。
これから先は介護も私の役割です。

そんな事情もあって、現在はネットでのビジネスの注力しています。


お客さんの立場からしても、むつかしい顔をして
眉間にしわのよったような店員さんからは、
買い物なんてしたくないですよね。


これからも、笑顔でがんばります。



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